市長の手控え帖 No.204「定信の世界への視線」
江戸時代、ヨーロッパの窓はオランダ(紅毛)だった。以前はポルトガル・スペイン(南蛮)船は、アフリカ南端の喜望峰を回り、日本の西南から来るのが常識。ロシアはまだ視界に入っていない。だが、江戸中期になると、ユーラシア大陸にまたがる巨大な国が存在することが分かった。しかも蝦夷の近くまで迫っているという。異国船は北からも来る!
知勇に優れた皇帝がいた。ロマノフ王朝の基礎を築いたピョートル大帝(1672~1725)。若い頃、ロシアの近代化を図るため西欧諸国を1年半視察した。海洋国家として繁栄するオランダでは、一船大工として4か月働いた。大帝はオランダが対日貿易で巨大な利益を得ていることを知り、東方への関心を強めた。
1706年、カムチャツカ半島に進出。28年、大帝の命を受けたベーリングが海峡を発見。39年、ロシア船が安房、伊豆で日本人と接触。05年、大坂の漂流民に日本語学校をつくらせた。10年、紀州の漂流民が日本語教師にあたる。38年、薩摩の漂流民が世界初の露日辞典を編纂する。ロシアは用意周到に日本へ接近する。
仙台藩の医師工藤平助は、大きくなる北の足音に危機感を持ち『赤蝦夷風説考』を著す。この書には、ロシア全土とカムチャツカ半島が強調された世界地図が添えられていた。平助は「蝦夷地が危ない」と警鐘を鳴らし、ロシアとの交易や開拓の必要性を訴えた。蝦夷を直轄地とし、開発を進めようとしていた田沼意次は、この建議を採用。直ちに実地調査を始めたが、失脚により頓挫。
次の老中松平定信は"不毛の地である蝦夷は、南下するロシアと日本の緩衝地帯になる"として開発政策に反対。だが、幕閣では開発論者が少なくなく、国後と対岸のアイヌによる和人襲撃事件が起きる。蝦夷地政策は動揺を続ける。
定信は蘭学者を通し、ロシアの動きを把握しようとした。外国の蔵書も多く、中でもロシア・蝦夷地関連が他を圧倒していた。銅板画家司馬江漢は、定信の内諾を得て『地球全図』を出版。幕府の奥医師桂川甫周は、命を受け『魯西亜志』を翻訳し、漂流民大黒屋光太夫からの聞き取りを基に『北槎聞略』を著す。
解体新書を世に送った前野良沢には、世界に関する翻訳をさせるとともに、蛮書翻訳局を拡充し地理・軍学書を蒐集した。元通詞石井庄助を白河藩で召し抱え、蘭和辞書を作成させた。定信の目はロシアにとどまらず世界に向けられていた。
1792年10月。ラクスマンが通商を求め根室に入港する。定信は礼と法で対応した。「礼を持って漂流民の送還をねぎらうが、江戸への来航は国法により許されない。通商は許しがたいが、望むのであれば長崎の入港許可書(信牌)を与える」。要求を拒絶する一方、長崎での交渉の余地を残す"活路"を開いた。
活路は目前の危機をやり過ごす方便だったのか?否。定信はロシアとの貿易を覚悟していた。松前で交渉する役人に、言質は与えないがほのめかしてもいいと指示している。定信のロシア研究と外交ブレーンの助言が活かされている。
1804年9月。レザノフが信牌を持参し長崎に現れた。だが老中土井利厚は、6か月待たせたあげく通商を拒否。「二度と来るな」と言い放つ!杉田玄白らは前回と真逆の対応に、信義に悖ると批判。長崎奉行所に勤務していた大田直次郎(南畝)は"レザノフの顔は真っ青だった"と記す。激怒したレザノフの部下は、樺太・択捉の番屋や和船を襲撃した。
事件を聞いた定信は、朝鮮や琉球との通商関係を拡張し、隣国ロシアも組み入れる案を提示している。この時ロシアに国を開けば、欧米列強も続いたであろう。そうすれば、日本はペリーの砲艦外交に屈することなく、主体性を堅持したまま、近代化の道を歩んだかもしれない。
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