市長の手控え帖 No.197「湯治の楽しみ」

日本は温泉大国。飛鳥・奈良の時代から各地の「風土記」に入浴の習わしが記録されている。当時から、入浴は病の治癒に加え、健康・美容にも効果があることは知られていた。江戸に入ると貝原益軒たちが治療の一環として入浴を勧め、その心得が普及していった。"長湯はしない。風邪や熱のある場合は控える…"
水戸の尊皇攘夷家、藤田東湖は脳卒中の療養で塙の湯岐温泉に滞在した。近藤勇は緊迫する情勢の中で心労が重なった。自ら東山温泉で疲れを癒した松平容保は、有馬温泉での湯治を勧めた。といっても入浴者の多くは病人ではなかった。勿論、気うつや怠さを感ずる人が、気力・体力を回復するために入浴したが、大半はレジャーとして楽しむようになる。
湯治は医療から生活習慣、そして娯楽的色彩を帯び近代に至った。世に知られている温泉の殆どは、農民の湯治場として発展してきた。特に農作業が一段落した時期に温泉に浸る習慣が定着した。気分を一新し身体を休め次の労働に備えた。湯治は祭りや年中行事と同じように、全国的規模で庶民層に広まっていった。
祖母は茶飲み仲間と湯治に出かけた。米や味噌、衣類を背負ったご一行さんは笑顔に溢れていた。行き先は奥甲子や奥那須。小6の夏休み、両親や妹らと奥甲子に向かった。バスを降りるとつづら折の険しい道が続く。米を背負った身にはこたえたが、高原の風は心地よかった。登り切ると古い一軒宿が見えた。
長い階段を下り、阿武隈川にかかる橋を渡る。広々、深々とした岩風呂。気持ちいい!温泉好きの原点はここにあった。食事は自炊のご飯、味噌汁に漬物、缶詰ぐらい。テレビもラジオもない。入っては休み、また入る。何日かすると、大人は知り合いらと酒盛りを始める。
北温泉は余笹川の谷合深く佇んでいる。黒磯駅からバス。そこから30分ほど歩くと入口。谷底へ転げ落ちるような道を恐る恐る下る。その先に、江戸末期に建てられ明治・昭和に増築した超レトロな一軒宿が見える。湯量が凄く、大天狗面の浴場に岩から噴き出してくる。湯も熱く、噴き出る汗で浴衣も濡れてくる。
幼い頃近所の若妻会と来たらしい。落ち着きのない子供は、何かの弾みで岩に頭をぶつけた。血が噴き出す。大騒ぎになったが、医者は山奥にはすぐ来られない。母らが傷口をタオルで押さえ止血したとのこと。私の記憶にないが、その傷は今でも三日月形にくっきり残っている。
農民の湯治は2週間前後。だが、年に数度のささやかな休養の日々だった。湯治は無為の時間。晩年、北信濃に住み大の温泉好きだった小林一茶。「永き日は只湯に入が仕事哉」「湯に入ると巨燵に入るが仕事哉」と詠んだ。無為は漫然と過ごすのとは違う。毎年湯治に行けば顔なじみになり、自然に交流が生まれる。
袖振り合うも他生の縁。世間話をするうちに縁組がまとまり、伊勢参りをする仲にもなる。湯治場という小さな世界で命の泉が湧き、人との縁ができた。帰る頃には別れを惜しみ、再会を願ったのであるまいか。当時、2週間程度の湯治は決して長くなかった。だが今からみれば、実に贅沢な時間だったといえる。
祖母がポツリと言った。「今はどの家の人も勤めに出ている。金には困らないだろうが、幸せなんだろうか?貧しくても、湯治に行き、さなぶり・盆踊り・秋祭りがあった頃の方が幸せだった気がする…」時間に追われる現代、湯治という習わしは消えつつある。実に寂しい。
AIにチャットGPT。格段に仕事は効率化されている。その分余暇は増える筈だが、誰もがストレスを抱えている。人間は自ら生み出した高度な人工知能に追い立てられ、その僕になっている。文明の皮肉だ。今こそ"無為"の時が必要だ。スマホを捨てて湯治に行こう!
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