松平定信を知ろう
白河藩主・松平定信の功績や人物像、そして白河とのつながりについて紹介します。

▲松平定信像(長谷川周春筆)(部分)(白河市歴史民俗資料館蔵)
目次
福島県白河市PRキャラクター「さだのぶくん」「定信兄さん(さだにぃ)」が誕生
松平定信とは
江戸幕府8 代将軍・徳川吉宗の孫で、白河藩主松平家の養子に入り、26 歳(数え年)で白河藩主となりました。東北地方で特に被害が多かった天明の大飢饉の際、自ら率先して倹約につとめ、すぐさま領民を救う食料援助策を行ったため、白河藩では飢饉による死者が一人も出なかったと伝えられます。定信のこうした手腕が評価され、11 代将軍・家斉のもとで老中となり、寛政の改革を行い幕政の立て直しに尽力しました。
寛政の改革での業績はもちろん、定信が白河に残した功績は数多く、今でもその伝統と精神がこの地に宿っています。
- 年表
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年号(西暦) |
年齢 |
出来事 |
|---|---|---|
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宝暦8(1758) |
1歳 |
田安徳川家初代・宗武の7男、第8代将軍・吉宗の孫として誕生。(幼名は賢丸(まさまる)) |
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安永3(1774) |
17歳 |
奥州白河藩主・松平定邦の養子となる。 |
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天明3(1783) |
26歳 |
養父・定邦の跡を継いで白河藩主となる。翌年藩主として初めて白河入り。 |
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天明7(1787) |
30歳 |
老中首座となり、「寛政の改革」を始める。 |
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寛政元(1789) |
32歳 |
「囲米の制」を発す。 |
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寛政2(1790) |
33歳 |
人足寄場設置。「旧里帰農(奨励)令」を発す。 |
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寛政4(1792) |
35歳 |
江戸に町会所を設置し、七分金積立を始める。 |
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寛政5(1793) |
36歳 |
老中ならびに将軍補佐役を辞職。 |
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寛政6(1794) |
37歳 |
7年ぶりに白河へ帰国する(以降隠居まで参勤交代でほぼ1年おきに白河に滞在)。 |
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寛政12(1800) |
43歳 |
白河関跡に「古関蹟」碑を建てる。 |
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享和元(1801) |
44歳 |
南湖を築造する。 |
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文化9(1812) |
55歳 |
嫡子・定永に家督を譲り、江戸の「浴恩園」での隠居生活に入る。 |
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文化13(1816) |
59歳 |
塩竃神社(現在の宮城県塩竈市)の参詣を許され、行き、帰りとも白河に滞在。白河関跡、南湖などを訪問(生涯最後の白河滞在)。 |
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文政6(1823) |
66歳 |
3 月白河藩松平家が桑名への転封を命じられる。定信は引き続き江戸で生活する。 |
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文政12(1829) |
72歳 |
5月13日、死去。 |
白河藩主としての功績
天明3年(1783)、天明の飢饉が発生し、白河でも米が不足し、8月下旬には白河の城下でも打ちこわしが起きます。
定信の養父で藩主の定邦は病気であったため、定信は代わりに飢饉の対応に乗り出します。白河藩の飛び地(離れた領地)が越後(現在の新潟県)にあり、比較的飢饉の被害が少なかったことから米を白河に輸送しようと考えました。間にある会津藩と交渉し、越後から米を輸送する協力を取り付け、また米や雑穀など購入もはかるなどし、食糧の確保に奔走しました。
このような動きをみて家臣たちも定邦に隠居を説得し、定信は家督を継ぎ藩主となりました。危機的状況のなかでの定信による飢饉対応の様々な方策が功を奏し、他の諸藩の状況に比べ大幅に被害を食い止め、飢饉を乗り越えました。
老中首座として寛政の改革をけん引
白河藩での飢饉対応の政治手腕が評価され、天明7 年(1787)、定信は老中就任と同時に老中のトップ(首座)へ指名され、「寛政の改革」を開始しました。30歳(数え)という若さに加え、幕府の他の役職を経験せずに老中に抜擢されたことは異例のことでした。
この改革は、将軍のお膝元である江戸で庶民が暴動を起こし、それを武士が抑えられなかった「江戸の打ちこわし」から大きな影響を受けており、定信や新たな幕閣にとって「江戸の社会秩序の再建・維持」がいちばんの重要課題でした。
改革の内容を一部ご紹介します。
| 政策 | 内容 |
|---|---|
| 倹約令やぜいたく品の制限 | ともに以前から出されていた状況のもと、継続や改めての周知のために触れを出しました。 |
| 出版統制 | 寛政2 年(1790)に出された触れの中で、享保7 年(1722)に出された基本的な出版の決まりがいい加減になっているとして、出版業界で内容の確認を行わせ、確認していない場合は確認役を置くよう指示しました。寛政3 年、蔦屋重三郎・山東京伝らは「放埓の読本」を出版したとして処罰を受けました。 |
| 文武奨励 | 将軍の前で武芸を披露する機会を作ったり、湯島の昌平坂学問所において試験を開始し、成績優秀者を表彰したりして、武士のやる気を引き出そうとしました。 |
| 囲米の制 | 常時から米穀を蓄える体制を整備しました。 |
| 七分積金 | 江戸の各町の経費を節約させ、余った七分(70%)を米や金銭の貯蓄に当てさせました。 |
| 旧里帰農(奨励)令 | 農村から江戸に流れた貧農民に故郷へ戻る旅費や農具代を支給して帰農を推奨しました。 |
| 人足寄場 | 江戸の治安維持のため、火付盗賊改の長谷川平蔵に命じて無宿人を収容して職業訓練をし、普通の生活に戻れるようにする施設を設けました。 |
老中辞職後も白河藩主として民のために尽力
学問奨励
定信は、藩校「立教館」を設立し、藩士が文武に励む環境を整備しただけでなく、白河の城下と領内の須賀川町(現在の須賀川市)に「敷教舎」という学校を設けました。女子を含む町役人や商人などの子どもに、読書や手習い・算術などを教え、庶民の人材育成・学問奨励にも力を入れました。
人口減少対策
当時、東北地方では困窮のため子どもを多く育てられず、「間引き」が常態化していました。そのため労働力となる男子ばかり育てて女子が少ない、男余りで独身者が増える悪循環となり、農村の人口減少が問題となっていました。
白河藩でも同様で、この状況を改善するために、大庄屋(江戸時代に地方行政を担った村役人)の提案を採用し、間引きの風習がなかった越後の白河藩飛び地から希望する女性を募集し、白河側の男性に結婚を仲介する政策を行いました。
また、子供が生まれれば赤子養育金(子育て資金)を出し、あわせて間引きの罪で地獄に落ちるさまを描いた「受苦図(じゅくず)」を城下の常宣寺に預けて村々をまわらせ、間引き防止の教化を行いました。

▲受苦図(常宣寺蔵)(福島県指定重要有形民俗文化財)
定信と市内史跡の関わり
小峰城
定信の意向を受けて作られたのが、小峰城内の建物を実測した図面「白河城御櫓絵図(しらかわじょうおやぐらえず)」(文化5 年〈1808〉完成)と考えられています。この図面と発掘調査の結果を基に、平成3年(1991)には三重櫓、平成6 年(1994)には前御門が木造で復元され、現在は本丸の入り口の門にあたる「清水門」の復元が進められています。


▲三重櫓建絵図(「白河城御櫓絵図」より、白河市歴史民俗資料館蔵、福島県指定重要文化財)
南湖
定信により、身分の差に関係なく誰もが楽しめる「士民共楽(武士も庶民も共に楽しむ)」という理念のもと、享和元年(1801)に築造されました。
当時、大名が手がける庭園は居城内や江戸の大名屋敷内などに造られ、庶民は基本的に立ち入ることができませんでしたが、南湖には垣根がなく、いつでも誰でも訪れることのできる画期的なものでした。
一方で実利の側面もあり、工事は不作で困窮した庶民に手伝わせて給金を与えるとともに、湖を灌漑用池として利用し周囲に新田を作りました。また藩士の水泳や船の訓練にも利用しました。


▲共楽亭(白河市指定重要文化財)
定信が身内や家臣たちと景色を楽しんだという茶室。
白河関跡
白河は古くから交通の要衝として栄え、奈良時代から平安時代にかけて白河関が置かれ、人や物資の検問所として機能しましたが、のちには廃れ、場所は長らく不明となっていました。定信は、記録や絵図、地元の古老の話などを調査し、白河関跡の場所を断定し「古関蹟」と題した石碑を建てました。
定信の調査が踏襲され、発掘調査による確認を経て、この場所が「白河関跡」として昭和41 年(1966)に国の史跡に指定されています。


▲白河関跡前景(上)・古関蹟碑(下)
文化人としての定信
定信は幼いころから勤勉であり、学問や武術以外にも幅広い教養を身につけました。
定信の素養
- 絵画
絵師の狩野典信や山本又三郎に絵を学び、20 代の頃を中心に多くの絵を描きました。のちに定信は、絵画がそなえている記録性や情報量などを重視し、様々な事業に活用しました。 - 書道
和歌や漢詩をはじめとした多くの書を残しています。揮毫した扁額(門や玄関に掲げられる字額)は、兼六園(石川県金沢市)のものがよく知られているほか、白河市内にも多く残っています。 - 和歌
10歳ころから和歌を好んで読みはじめ、17歳のころには7000首にもなったといいます。 - 著作
わかっているだけでも182部という膨大な数の著作を残しています。
『集古十種』
全85冊からなる図録で、家臣や交流のあった学者・画家たちに全国の古宝物調査や資料の提供を依頼し、それらを模写・整理して編さんさせたものです。現在の文化財保護にも通じる成果といえます。

▲「集古十種」(兵器 刀剣)(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
定信と庭園
白河と江戸に合計5か所の庭園を造りました。現存するのは白河市の南湖のみです。
| 庭園名 | 年代 | 所在地 | 推定面積 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 浴恩園(よくおんえん) | 寛政5年(1793)~6年頃 | 東京都中央区築地 | 約56,100m2 | 都指定旧跡 |
| 三郭四園(さんかくしえん) | 寛政6年~10年頃 | 福島県白河市郭内 | 約46,200m2 | |
| 南湖(なんこ) | 享和元年(1801) | 福島県白河市南湖ほか |
境界がなく、正式な広さは算定不能 (指定地面積は約400,000m2) |
国史跡名勝 |
| 六園(りくえん) | 文化元年(1804) | 東京都文京区大塚ほか | 約40,000m2 | |
| 海荘(はまやしき) | 文化13年 | 東京都江東区牡丹ほか | 約3,300m2 |
定信公が手掛けた芸術作品
- 「達磨図」(白河市歴史民俗資料館蔵、白河市指定重要文化財)
定信が描いた絵画。右上には「天明4 年冬の月に小峰城において之を描く」とあり、藩主となって初めて白河に入部した年の冬に描いたことがわかります。

- 和歌「あまのはら」(白河市歴史民俗資料館蔵)
藤原定家の古歌を書したもので、古典的な和歌に対する定信の思いがうかがえます。

- 「近世職人尽絵詞」(部分)
(東京国立博物館蔵、出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/) より)
定信が絵師・北尾政美(鍬形蕙斎)と山東京伝らの作家に依頼して作らせた江戸時代の風俗絵巻。
山東京伝は定信の寛政改革中に処罰された人物ですが、後に作品を依頼していることから、定信自身は黄表紙などの娯楽作品に理解を示していたのではと考えられています。

- 「古々呂双紙(複製、部分)」(白河市歴史民俗資料館蔵)
絵師・竹沢養渓が絵を、定信が詞書を手掛けた作品で、大正8年(1919)に渋沢栄一が複製したものです。引き出し線やせりふを用いた滑稽味のある表現は、当時流行していた草双紙などの影響とみられ、今のマンガに通じるものがあります。

普段の定信のすがた
- のちの藩士には色白、美男子、鋭い目つきであったと伝わっていた
- 口数が少なく、議論を好まなかったが、発する一言には重みがあったといわれる
- 身長は推定160~163センチメートル
- 「鰹以外にまた食べたいと思うことはない」と自ら記すほどの鰹好きだった
主な参考文献
- 藤田覚『松平定信』(中央公論社、1993年)
- 高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館、2012年)
- 「松平定信を知るためのガイドブック」(白河市歴史民俗資料館、2025年)
定信が白河に遺したもの
白河だるま
定信が瓦職人に関東でだるま作りを学ばせ、だるまの下絵を定信の御付絵師である谷文晁から与えられたのが白河だるまの起源とされます。

▲佐川だるま製造所(所在地:白河市横町81、電話:0248-23-4239)

▲白河だるま総本舗(所在地:白河市横町30、電話:0248-23-3978)
白河だるま市
毎年2 月11 日、旧奥州街道沿いの一部(本町~天神町)でだるまや飲食物などを販売する露店が立ち並びます。
だるま市は、年のはじめの市で市場の神(市神)をまつったとされる市神祭(市神様)が起源とされ、約300 年前の古文書に「市神祭」と記載されるほど古くからの行事です。市神様では最初、正月飾りや花飾りが売られ、「花市」ともいわれていましたが、のちに売り物の中心がだるまとなり、「だるま市」と称されるようになりました。
南湖だんご
南湖築造の際、定信が職人たちにふるまったのが起源と伝わります。一口大のおだんごを爪楊枝でいただくスタイルが定番です。
湖畔には南湖だんごを提供するが3店舗あり、それぞれ違った味わいを楽しめます。

▲荻原屋(所在地:白河市五郎窪40、電話:0248-23-3679)

▲花月(所在地:白河市南湖2、電話:0248-23-3377)

▲水月(所在地:白河市五郎窪41、電話:0248-23-3507)
定信と渋沢栄一
渋沢栄一は、七分積金をもとにした東京府内の道路・橋の修築、瓦斯燈(がすとう)の設置、商法講習所(後の一橋大学)の設立、東京府市庁舎・墓地の建設、養育院(困窮者・病人などの保護施設)の創設など、多岐にわたる事業に深く関わりました。
七分積金は定信が開始したことを知り深く敬愛した渋沢は、『楽翁公傳』の編さんをはじめとした定信の顕彰活動や、定信が御祭神として祀られる南湖神社(白河市)の創建に多大な尽力をしました。また、さまざまな活動で多忙を極めても、定信の月命日の毎月13 日には必ず養育院に登院して業務をこなし、入院者と交流しました。

▲南湖神社
関連商品
定信公(御菓子司えんどう)
バターを練りこんだ自家製こし餡とクリームチーズをしっとりとしたクッキー生地で包んだ商品です。

白河銘菓定信(大黒屋)
しっとりとした生地の中にみたらし味のお餅が入っています。

定信(大黒屋)
大黒屋と千駒酒造がコラボレーションして誕生した特別純米酒。

おきな餅(鈴木松月堂)
水飴と砂糖、寒天、餅粉を使った無添加のお菓子です。
越後高田で誕生した米飴が高田藩松平家(のち白河に転封)の飴として伝えられ、のち寒天で固めた「おきな飴」が、定信によって白河に伝えられたとされます。その後、鈴木松月堂が改良し「おきな餅」として白河の銘菓になりました。

白河市以外の定信ゆかりの地
福島県西郷村
勝花亭
定信は甲子の風景をしばしば楽しみ、ここに休泊したとされています。
- 参考:西郷村HP

剣桂
「昔、この地に鬼神が現れ、路行く人々を苦しめたので、白河城主・松平定信が、剣をもってこの木に鬼神を封じ込めた」という伝説も伝わり、剣桂と呼ばれています。この剣桂を神の依り代として祀る神社が剣桂神社です。
- 参考:西郷村HP

楽翁渓
定信が渓谷の美しさを絶賛したということから、その名がついたといわれる楽翁渓。春になると渓谷を彩るヤシオツツジが綺麗に咲き誇ります。

- 参考:ふくしまの旅
飯坂温泉(福島市)
寛政12 年(1800)、離れた領地の信達分領(現在の福島市・伊達市周辺)へ巡視のため飯坂温泉を訪れました。
東京都江東区
- 参考:江東区HP

▲定信の墓。周囲には柵が設けられており、通常は柵の外からの見学になっています。
三重県桑名市
定信の隠居後に嫡男の定永が白河藩から桑名藩に移封しました。定信は桑名へ赴くことなく、江戸で生涯を過ごしましたが、桑名にも骨や装束を収めた墓が作られました。また、定信の薫陶を受けた藩士は桑名藩政並びに桑名の文化向上に貢献しました。また定信の書画なども現在の桑名に伝えられています。
- 参考:桑名市HP
定信と同時代に生きた人物ゆかりの地
東京都台東区
定信らによる寛政改革によって処罰を受けた蔦屋重三郎が生まれ育ちました。
- 参考:たいとう文化マルシェ
静岡県牧之原市
定信が老中になる前に幕府政治を主導した老中・田沼意次の居城、相良城が置かれていました。
- 参考:牧之原市HP
栃木県栃木市
定信と同時代に生きた喜多川歌麿が栃木市の豪商に依頼されて描いたとされる肉筆画が残っています。
- 参考:栃木市HP
福島県白河市PRキャラクター「さだのぶくん」「定信兄さん(さだにぃ)」が誕生
白河藩主・松平定信ゆかりの地である白河市の魅力を全国にPRするため、マスコットキャラクターを作成しました。
事前に使用申請をいただければ、どなたでも使用できますが、使用目的には制限があります。
ぜひご活用いただき、「松平定信ゆかりの地 福島県白河市」を盛り上げていきましょう!
ロゴマーク等の使用方法につきましては、こちらをご覧ください。
- さだのぶくん

- 定信兄さん(さだにぃ)

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